本稿は2015年10月配信のDJWニュースレターに掲載されたものです
磁器三産地の発展過程とブランド力
地域活性のためのNPOである日本伝統文化振興機構(JTCO)を設立したばかりの2010年頃、地方産品のブランディングに関する資料を探していたところ、「中国ブランド構築の難しさ~景徳鎮はなぜ衰退したのか」(田中信彦2009)というインターネット記事が目に留まりました。その内容は、「景徳鎮は2000年以上前(漢代:前206-8)、有田(伊万里)は17世紀、後発のマイセンは18世紀から生産が始まり、それぞれ有田は景徳鎮に、マイセンは中国や日本の陶磁器に学んで品質やデザインの向上に努めた。これら3つの産地の陶器の今日のブランド力や販売価格を比較すると、マイセンが圧倒的に優位であり、有田が続き、景徳鎮に至っては国内でも「中国磁都」の凋落が取り沙汰されて久しい」というものでした。
この理由として、生産地のブランド形成のための取り組みや、生産体制の違いが挙げられています。景徳鎮は職人の技術は高かったにもかかわらず、有田のように地元が組織的に職人を育成し、地元に利益を還元するという、いわゆる「地域ブランド」を形成するための取り組みが図りにくい環境があったということです。景徳鎮では、1000年前の宋代(960-1279)に官窯が設立され、以来清代(1644-1912)まで続きますが、そのほかにも一般庶民向けのやきものを作る民窯が無数に存在しました。生産のピークであった清代(17-18C)から既に職工のほとんどは地元民ではなく出稼ぎの季節労働者であり、資本を持つ者が提供する貸し工場の設備を利用して生産に従事していました。そのため職工が定着しづらく、各工場は画一的な設備を提供することが多くなり、技術の革新や伝承に支障をきたすことになりました。また、職工の出身地による対立もしばしば起きたということです。有田焼は、1610年代に朝鮮半島出身の陶工が鍋島藩内の陶土で白磁の焼成を行ったことに始まり、1637年にはすでに品質保持を目的とした鍋島藩による窯場の統廃合が実施されました。藩は「皿役所」と呼ばれる機関で職人の保護育成に取り組み、生産された磁器はすべて藩が専売制として買い取りました。職人の生活は保障されており、また技術漏洩を防ぐため外部との交流を制限され、一生を域内で過ごしたと言います。一方マイセンでは、東洋の磁器、特に日本の有田焼に心酔していたザクセン選帝侯のアウグスト強王が、錬金術師ペドガーをアルブレヒト城に幽閉し、磁器の焼成に成功したのが1709年。以降、アルブレヒト城内に王立の磁器工場が設立され、徹底的な生産管理のもと、現代に続くマイセン窯として発展していきました。
これら3つの磁器生産地の成立や発展の過程を紐解いてみると、品質やデザインといった製品そのものの価値以上に、人や設備をも含めた生産管理体制および販売管理体制がブランド形成に非常に重要な役割を果たしていることがわかります。また、現代で言うブランド・コミュニケーション、つまり生産と販売に携わる側が製品の価値をどのように位置付け、顧客に対して表現していくかが、歴史の中で図らずも磁器製品の価値を決めてきたことが理解できます。ドイツに限らず欧州では、永く東洋の磁器は金銀財宝に相当する価値のある品物であり、欧州各地の城を訪れると、その展示物の中にかなりの確率で「柿右衛門」またはそれを模した欧州製の磁器を見つけることができます。ヨーロッパの王侯貴族にとって、高価な東洋の磁器で邸宅を飾り、賓客を磁器食器でもてなすことはステイタスであり、また当時の流行でもありました。よって、欧州の磁器はその誕生の時点からすでに、製品としてこの上なく高い位置を築いていたのです。
デザイン・マネジメントとブランド・マネジメント
欧州と中国、日本では生産体制に違いがあったのは既述のとおりですが、そのことが以降のブランド・マネジメント、およびデザイン・マネジメントにも大きな影響を及ぼしました。ドイツではマイセンが王立窯として始まったことを皮切りに、ベルリンやニュルンベルクなどでも相次いで王立窯が設立されました。その後、私企業による窯も設立を認められるようになりますが、当初の顧客は多くの場合において欧州の王侯貴族などの富裕層であったようです。このような顧客層の存在により製品のステイタスが保たれるとともに、複数の窯の統合ではなく、ひとつの組織によりひとつの産地が構成されたことによって、ブランド構築の方向性が明確になり、そのマネジメントも比較的容易であったことが想像できます。また、マイセンで言えば絵付けの技術を確立した画工のヘロルト、造形を担ったケンドラー、マイヤー、アシエなど、モデラーたちのデザイン資産が18世紀から現代に至るまで営々と受け継がれており、これらがマイセンのスタイルとして現在でも明確に発信されています。
有田では、1660年代に有名な柿右衛門様式が成立しました。「柿右衛門」とは、酒井田柿右衛門という職人個人の名前に由来するものですが、実際は有田の窯場の職工たちが協業して完成させたと言われています。柿右衛門様式は主に輸出用高級磁器のデザインであり、複数の窯場が顧客層の違いに応じて同じスタイルを描き分けていたようです。有田焼は「伊万里焼」としても知られていますが、伊万里とは域内のやきものを出荷する港の名からついた呼称であり、有田以外にも三川内、普及品を焼く波佐見の製品も含まれます。また、有田には藩主や他藩の大名向けの高級品のみを焼く藩窯(鍋島焼)も存在しましたが、これは明治維新後にいったん途絶えてしまいます。設立から現代に至るまで基本的にひとつの窯がひとつのブランドを受け継いできたドイツの窯と比べ、顧客層が分かれており複数の窯場により成立する有田が、ブランドや様式を統一して管理することはやや困難であったことが想像されます。景徳鎮では、1978年の中国政府による経済改革・開放政策以降、それまで2000以上あった窯が20の国営工場と集団工場にまとめられ、画工やモデラーというよりは、国宝級の工芸美術家が高級品を制作する研究所、量産品を製造する工場など、商品ランク別に生産を受け持つ工場が分けられました。清代に数十万人を数えた製磁人口は、1980年頃でも4万人だったといいます。景徳鎮の製磁は長く地域経済を支える一大産業でありましたが、高級品から量産品までこれだけの規模で生産される製品をひとつのブランドでまとめることは、非常に困難なことであると言わざるを得ません。
以上、磁器の分野に限って説明して参りましたが、ブランド力やデザイン・マネジメントの差は、各国の工業製品にも当てはまることに気付かれた方も多いのではないでしょうか。ドイツにも日本にも、世界中で認知された優れた自動車メーカーが存在しますが、ブランド力という意味では圧倒的にドイツ企業に軍配が上がっています。この理由を、過去にプロダクト・デザインの専門家に伺った話などを総合して考えてみると、前述の磁器製品の今日に至るまでの発展過程とかなりの部分で一致します。たとえばポルシェであれば、王立窯のごとく基幹設計、筐体デザイン、会社の運営までを1971年までポルシェ一族が中心として担っていました。BMWなどほかのドイツ車メーカーにも言えることですが、ドイツ車は車種が異なってもスタイルに一貫性があるため、多くの場合一目見てそのメーカーのものであることがわかります。これに対し、日本のメーカーでは有田焼のようにひとつの車の筐体デザインであっても複数のデザイナーが協業して行うことが多いと聞きます。 また、車種間でスタイルに一貫性がない場合が多く、知らない人にはスタイルからメーカーを特定することが難しいと言われています。そもそも、日本企業は大衆車を製造してきた歴史が長く、特に高級ブランドとしてのイメージの構築を強く指向していなかった可能性もありますが、一貫したブランド・コミュニケーションを行おうとする上で、ドイツ企業に比べより多くの労力が必要になることは想像に難くありません。
デザイン嗜好とブランド・コミュニケーション
さて、工芸品の話に戻りましょう。日本の伝統的工芸品は、経済産業省が法律に基づき認定するものが222点(2015年6月18日時点)あるほか、事業者数が少ないなどの理由で経産省の認定基準に達せずとも都道府県など地方自治体レベルで認定されているものが数多くあります。中には生産事業者がすでに1社を残すのみとなっている工芸品もありますが、日本では生産者側も伝統工芸品は地域の資産であるという認識である場合が多いと考えられ、そのような認識に合致するブランド・コミュニケーションが必要となります。
私どものNPOでは、地域経済の活性化を最終目的として、日本でも全国レベルではあまり知られていなかった地域の伝統工芸品をウェブサイトで紹介する取り組みを2010年より開始しました。2011年からはオンラインショップでの販売も開始し、一部商品についてはデザイナーによる新しいデザインを提案するなど、現代の生活や嗜好に合わせて伝統技術を更に発展させていくことを目指しています。2014年からは海外での常設販売も開始し、同年4月よりパリで、2015年4月よりロンドンでも販売を行ってきました。現時点では、姫路の伝統工芸品である「姫革細工」(白くなめした革に型押しをし、手書きで着色していく革工芸品)を中心に展開をしていますが、日本とパリ、ロンドンでは人気のあるデザインに若干の違いがあるように感じています。今後定量的に分析していく必要はありますが、例えばロンドンでは、日本やフランスで売れ筋の華やかな花柄よりも、単色のペイズリー柄など、落ち着いたデザインが早くに完売しました。花柄がトレードマークとも言えるキャス・キッドソンやローラ・アシュレイのお膝元としては意外でしたが、ペイズリー柄が18世紀にインドからイギリスに入り、スコットランドの都市ペイズリーで毛織物の柄として発展した経緯もあり、現代のイギリスの方の嗜好にそれが影響しているのかなど、非常に興味があります。今やロンドンの人口の3分の1以上が外国生まれと言われる上、イギリスは階級社会であり、階級により価値観や購買行動も明確に異なるということで、ロンドンのお客さま像を明確にイメージすることは難しいことが考えられますが、デザイン嗜好の把握だけでなく、共感を得ていただけるようなコミュニケーション方法をお客さまの層によってよく考える必要があると感じています。
過去数年来、私の現在の本業であるUX(ユーザー・エクスペリエンス)分野の業務で、ブランドおよびユーザーリサーチを手掛けるEYESQUARE社(ベルリン)と協業しており、そのプロジェクトを通して各国のユーザーに適したコミュニケーションについても考える機会がありました。中国や韓国のユーザーがステイタスや活力を製品や企業のイメージに求めるのに対し、ドイツ人や日本人はより信頼性や安定性を求める傾向があります。ドイツは地方分権の色濃い連邦国家であるため、地域により嗜好や価値観も異なる可能性があります。現在、ドイツにおいても日本の伝統工芸品を紹介、販売していくプロジェクトを温めておりますが、デザインの嗜好を理解することはもちろん、工芸品の価値を適切にお伝えできるよう、コミュニケーション方法をよく検討して行きたいと思います。
最後に余談ではありますが、以前日本の友人たちに、「ドイツにはどんなイメージを持っているか?」と尋ねたところ、「車、ビール、サッカー」という答えが大半でした。磁器のマイセンや織物のフェイラーも日本ではよく知られているのですが、ドイツにはどこか重厚で男性的な印象を持っている日本人が多いのは、ドイツのこの「御三家」の認知が高いことに拠るところが大きいのではないでしょうか。私自身も仕事を通してドイツという国を知り始めたばかりですが、今後、より多面的にドイツを理解し、より豊かなドイツのイメージを日本に伝えて行きたいと考えています。